啓明知才 啓明知才

先賢

一人の教育者、一つの言葉、一つの実話。

一生分の教育が、たった一文に凝縮されることがある。

世代を超えて学び手たちの姿を形づくってきた教育者たちを、一人ずつ紹介する。それぞれに、本人の一文、歴史が繰り返し引き戻す一つの実話、そして私たちからの短い感想。一人を持ち帰って、今夜、ひとつだけ考えてほしい。

20 世紀後半 / 21 世紀初頭 · アメリカ · テキサス
すべての子どもには、味方が必要だ。決してその子を諦めない、一人の大人が。

— TED Talk (2013)「Every Kid Needs a Champion」

ひとつの実話

Rita Pierson はアメリカの低所得地域で四十年間教えた。彼女に会う子どもたちの多くは、まず「自分は勉強に向いていない」から話を始めた。彼女は 2013 年の TED トークで、あるひとつの小さなエピソードを語った。それ以来、この話は教育の世界を旅している。

その年、彼女のクラスの生徒が数学のテストでひどい点を取った。標準の採点でいけば、その答案には「-18」と書かれるはずだった。彼女は -18 と書かなかった。答案の上に「+2」と書き、スマイルマークを描いた。生徒が顔を上げて言った。「先生、これ、落第点ですよね?」彼女は答えた。「そう。でも、二問できている。あなたは全部が間違いなんじゃない。」

後に彼女はこう説明した。「-18」は子どもに あなたはここでもう終わっている と伝える。「+2」は同じ子どもに あなたには、ここから上がれる出発点がある と伝える。同じ子ども、同じテスト、隅の一行が違うだけ。その週、この子がもう一度その本を開くかどうかは、素質の問題ではなく、その一文の問題だった。

TED トークが公開されてから数週間後、Rita Pierson は病気で亡くなった。あの映像は今日までに二千万回以上再生されている。

私たちの感想

Rita Pierson が語る「味方」は、いちばん寛容な大人のことではない。それは、子どもの「いまの失敗」を、その子ども自身の定義にしてしまうことを拒む大人のことだ。この二つは、まったく別の仕事だ。

「+2」という動作は小さく見えて、具体的な介入だ。落ちかけている子どもに、「あなたの次の一歩は、上に行くこと。消えることではない」と伝えている。この一文は、その子を「見る」つもりのある大人にしか言えない。Pierson は四十年かけて、他の大人たちに、この一文をもっと言えるように教えていた。

これは Luminis が言う「伯楽」でもある。天才の名馬を見抜く人ではなく、ふつうの馬が、自分は駄馬だと自分で信じ込んでしまうのを、拒む人のことだ。

20 世紀初頭 · イタリア · ローマ
教師にとってもっとも大きな成功のしるしは、こう言えることだ。「子どもたちは今、私がいないかのように働いている」。

— Maria Montessori『The Absorbent Mind』(1949 年)

ひとつの実話

Maria Montessori はイタリアで初めての女性医師だった。医師になってすぐの頃、ローマの精神病院で「教えられない」とされる子どもたちの世話を任された。ほかの誰もが諦めていたその子どもたちのなかに、彼女はひとつのことを見た。手と注意に合う道具を渡すと、この子たちは同じ作業を、何度も、真剣に繰り返す。この観察が、彼女の後半生の方向を変えた。

1907 年、彼女はローマの貧民街サン・ロレンツォ地区に、世界で最初の Casa dei Bambini(「子どもの家」)を開いた。家庭が世話しきれない三歳から六歳の子どもたちを五、六十人受け入れた。方法は驚くほど地味だ。子どもの背丈に合わせた家具、子ども自身が選べる教具、そして「授業をしない」教師 —— 教師の主な仕事は、部屋を整えることだった。

数ヶ月のうちに、近所の人たちが気づきはじめた。「手のつけようがない」と言われていた子どもたちが、じっと座って作業している。片づけをしている。互いに教えあっている。数年のうちに、ヨーロッパじゅうから教育者たちがこの一部屋を見にやって来るようになった。

私たちの感想

「子どもたちは、私がいないかのように働いている。」Montessori がこう言ったとき、彼女は冷たい教師を褒めていたのではない。彼女はこう言っていた。教師のいちばん重い仕事は、教壇に立って話すことではなく、部屋を十分にうまく整えて、その部屋自身が教えはじめるようにすることだ、と。この準備は静かで、外からは見えず、講義よりずっと難しい。

今日の親と教師にとっての直接の教えはこうだ。子どもに集中してほしいなら、まず、その子のまわりの環境が、その子の手と注意力に「本当にできる何か」を差し出せているかを見てほしい。環境が集中の可能性を差し出し、子どもがそれを引き受ける。この順序を逆にしてはならない。

出典

  • Maria Montessori『The Absorbent Mind』(Kalakshetra Publications, 1949 年;英訳 Henry Holt, 1967 年)
  • Rita Kramer『Maria Montessori: A Biography』(Da Capo Press, 1988 年)
19 世紀末 / 20 世紀初頭 · アメリカ
教育は人生への準備ではない。教育それ自体が人生である。

— Dewey が『My Pedagogic Creed』(1897) と『Democracy and Education』(1916) を通して繰り返し述べた中心的な思想を要約したもの

ひとつの実話

1896 年、シカゴ大学は John Dewey に哲学部長就任を依頼した。彼はひとつ条件を付けて引き受けた。自分の教育哲学を検証するための実験校を開くこと。これが後に広く知られるシカゴ大学実験学校 (University of Chicago Laboratory Schools) となった。

この学校は当時のどの学校とも似ていなかった。子どもたちは、台所で食材を量ることで数学を学んだ。織物を学ぶことで歴史を学んだ —— 織物の歴史はそのまま人類の歴史の一本の糸だからだ。木工室で木を切り、切ったものを組み立てることで科学を学んだ。Dewey は料理人や大工の世代を育てようとしていたわけではない。彼が示したかったのは一つだけだった。手が本当のことをしているとき、思考が本当に始まる、ということ。

妻の Alice が校長を務めた。学校は七年半のあいだ運営された。そこを出た子どもたちの中には、後の小学校教師、弁護士、科学者たちがいた。Dewey 自身、この七年半のあいだに、自分のもっと机上的な教育理論を大きく修正させられたと認めている。打ち負かされたのではなく、磨かれたのだ。

私たちの感想

Dewey のあの一文 ——「教育は人生への準備ではない、教育それ自体が人生である」—— は、いま聞くと標語のように響く。当時これは、あるひとつの扉を強く叩く音だった。その扉に貼られていた嘘はこうだ。「学校は、いま重要じゃない。あなたの将来が重要なんだから。」

学校の中で「これがいま身に付かなければ、あなたの将来は終わりだ」と聞かされ続けた子どもは、今日を生きるのをやめてしまう。今日を全部、将来のどこかの席と引き換えに差し出す。もしその席がついに届かなかったとき、その子は、本当に存在した十六歳、十七歳、十八歳を、まるまる失ったことに気づく。Dewey が言ったことは、実はとても単純だ。今日は、もうあなたの人生の一部だ。学校は、それが本当のことであるかのように振る舞うべきだ。

出典

  • John Dewey『My Pedagogic Creed』(1897 年)
  • John Dewey『Democracy and Education』(1916 年)
  • Katherine Camp Mayhew, Anna Camp Edwards『The Dewey School: The Laboratory School of the University of Chicago, 1896-1903』(D. Appleton-Century, 1936 年)
20 世紀前半 · 中国
生活そのものが教育である。

— 陶行知が中華教育改進社の宣言およびその後の多くの論文で繰り返し述べた中心命題

ひとつの実話

陶行知は 1914 年に渡米し、コロンビア大学で John Dewey に師事した。彼は真剣な学生だったが、同時にはっきりと見えていたこともあった。Dewey の「教育即生活 (education is life)」というフレーズはアメリカでは通じても、当時の中国に持ち帰ると通じない。当時の中国は四億人が読み書きできず、その多くが農村におり、教室から遠く隔たっていた。

帰国後、彼はほとんど鏡合わせの反転をおこなった。Dewey の「教育即生活」をひっくり返して「生活即教育」を掲げた。教育は、生活を学校に引きずり込むことではない。学校の側を下ろして、教育を生活そのもののなかに育てるべきなのだ、と。

1927 年、彼は南京郊外に暁荘師範を開いた。学生は寮に住まず、農家に住み込んだ。田を耕し、水を運び、農民に読み書きを教えながら、自らも教育学を学んだ。1939 年、日中戦争のもっとも苦しい時期に、重慶で育才学校を開いた。戦乱で親を失った才能ある子どもたちのための学校だった。彼が繰り返した一文がある。学びは、やっている最中のなかにある、と。

私たちの感想

陶行知のこの反転は、いま見てもまだ新しい。私たちの子どもたちは十数年間、学校で「まずこれをちゃんと身に付けなさい、あとで実際に使うから」と言われつづける。だが、私たち自身が大人になって振り返ると、本当に自分の身になったものの大半は、「使っている最中」に学んだものであって、「学んでいる最中」に学んだものではない。

これは学校が無意味だという議論ではない。教育が生活からあまりに遠く切り離されると、それは自分自身で失効しはじめる、という観察だ。教師が努力していないからではない。子ども自身の内側にある「これは自分と関係ない」という感覚は、押さえ込めないからだ。Luminis がやっている多くのことは、この隙間に縫合糸を戻そうとする、細かい縫い目だ。

出典

  • 陶行知『陶行知全集』(四川教育出版社, 2005 年;中国語版のみ)
  • Hubert O. Brown「Tao Xingzhi: Progressive Educator in Republican China」Biography 誌 (ハワイ大学出版, 1990 年)
紀元前 6 世紀後半 / 春秋時代 · 中国 · 魯国
教えあり、類なし。(教育に、身分の区別はない。)

— 『論語』衛霊公篇 第 15 篇 39 章

ひとつの実話

孔子が生きた時代、学問はおおむね貴族の内側に囲い込まれていた。諸侯の家の子は礼を学び、音楽を学び、弓を学び、御 (馬車の御し方) を学んだが、庶民の家の子には文字を覚える道すらほとんどなかった。孔子がやったこと ——当時の耳には、ほとんど無礼にさえ響いたであろうこと —— は、その扉を押し開けることだった。

『論語』にはこう記されている。「自ら束脩を行うより以上、吾いまだかつて誨うる無くんばあらず。」意訳すれば、「たった一束の乾し肉を、自分で持って挨拶に来た者を、私は教えなかったことがない」。一束の乾し肉は、庶民でも用意できるいちばん基本的な、心ばかりの贈り物だった。学ぶ気のある者なら誰でも越えられるほど低い床がそこにあった。

伝統によれば、孔子は生涯で三千人以上を教えたとされる。そのうち名の残る七十二人の中には、貴族の子も、小商人も、農民も、家にほとんど食べ物がないほど貧しい弟子もいた。彼は先に子どもたちを分類して教えたのではない。まず教えた。分類は他人の仕事だった。

私たちの感想

「有教無類」—— 教えに身分の区別なし —— という四文字は、今日、多くの学校の壁に掛かっていて、誰も反対しないスローガンのようになっている。だが、その裏にある本当の意味は、もっと厳しい一行だ。教育は「学びたい人」を中心に建てるべきであって、「すでに分類された人」を中心に建てるものではない。

二千五百年たっても、この問いはあらゆる教師、あらゆる親、あらゆる教育をする人が、自分に繰り返し問うに値する。いま自分がやっているこのことは、子どもの家柄を中心に建っているのか、テストの点数を中心に建っているのか、戸籍を中心に建っているのか、それとも「この子が学びたいかどうか」を中心に建っているのか。孔子の答えははっきりしている。彼の教育実験全体は、後者の側に建っていた。

出典

  • 『論語』—— 衛霊公 第十五、述而 第七 · 15.39「教えあり、類なし」· 7.7「自ら束脩を行うより以上、吾いまだかつて誨うる無くんばあらず」
  • D.C. Lau 訳『The Analects』(Penguin Classics, 1979 年)